あだち幸 友禅画「絹にたくすほとけへの憧憬」


            
  "絹にたくすほとけへの憧憬"

手描き友禅染めの手法に独自の技法を加え ほとけの世界そして地獄を描いた世界で唯一の作品にご案内します   

人はみなおのが宇宙をもつといわれます。私の宇宙もある時は真赤にあるときは真黒にただ自我の投影として彩りをかえる宇宙でした。人生を経るほどに必然として遭遇する老病死に真黒の闇はふかさをまし手さぐりで地を這う小さく閉ざされた宇宙でもありました。
でも失うものを失い絶望の闇がはれたとき 私の目に映じた宇宙は宇宙飛行士の方が目にする宇宙に喩えられる気がしてなりません。"この世は美しい。地球も地上のあらゆる生命もいとおしい"この美しくもいとおしいものを守るため人はこの世に生を受けるのではないだろうかと・・・・ところがひとたび耳をすませばきこえてくるのは虐げられたものの無音の嘆きの声 怨嗟の声。その現実にこそ真の闇が存在するのでした。
生きることは他の生命を食すこと 強者が弱者を踏みにじること くわえて今や絶対強者である人類(文明国の)の暴虐。
かって自分のための嘆きはこの無限大の悲しみへの慟哭と変わりました。
いと小さきもの弱きものにさしのべたいこの手の あまりの非力への慟哭となりました。
思いのみ強く 作品は未熟ですが絵を介して相似形の宇宙をもつ方とのお出会いをひたすら切望しております。               

                  ほとけはどこに?    

仏教では

万物は平等 生きとし生けるものすべてがほとけだと説かれます。
花も虫も動物も それぞれところをえて あるがままのいのちたちは美しく 世界はほとけ

満ちているかに思えます。ところが そのほとけたちを自分の都合で害獣 害虫 雑草などと

名づけては駆除 処分。利用できるとみれば動物も山も川も利用し尽して。美しいはずのほとけ
の世界の秩序を踏みにじる 人間という種がなぜほとけなのでしょうか。
たしかに今日の科学技術の驚異的発展は 人間の創造力のたまものではありますが その成果は
ひたすら人間のために活用し 人間中心の文明を築きあげてしまった。この文明の恐ろしさは 
他のいのちの犠牲の上にたちながら 欲望がさらに欲望を生み続ける文明であること。おびただ
しい負の遺産を生みつつ地球の破滅にむかってひた走る文明のかたちであるからです。
人間は一日も早く 人間本来の"あるべき様(よう)"にめざめ 人間にしかない素晴らしい特性を
生かして青く美しい地球を守り あらゆるいのちとの共存をはかっていく そういう方向に舵を
きることがほとけの一員としての人間の役割 使命だと思うのです。
月に星に空に 海山に川に ほとけは満ち満ちて...ほとけを描くということは 花の笑まい
は花の仏 小鳥のさえずりには鳥の仏 月にいざなわれれば月の仏。あるがままのほとけたちは
なにを描いても仏です。私の場合 内にほとけを秘めながら 我欲が邪魔してなかなかほとけが
輝き出ない まどいの人間仏に魅かれます。ですから人の象(かたち)でほとけを追求しているわ
けですが 描く本人がまどえる未(いま)だ仏ですから さてどのような仏様が画面に現れてくだ
さるのか おまかせです。 
   
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう