友禅作品集((ほとけシリーズ)

仏・・・・私にとりましては、最後まで憧憬の対象であり、まぼろしとして終ることでしょう。

でも画像として仏を形象化するわけですから本をあさり思索し、これぞという私なりの宇宙観をうち立てて満足した時期もありました。

年相応の苦しみ哀しみをくぐり抜けてきたいま、なにかがちがう・・・。

仏を観念化することのむなしさ。どんな素晴らしい表現でも、言葉では湖の水を両の手ですくいあげているような・・・。

もしも仏がおわすならば、それはきっと各人が湖水に身をひたし、おのがいのちで感じとるほかないのではないかと。

いずれにしろ、仏とはこよなく美しきものであるはずです。涙がこぼれるほど感動するもの、たとえば大自然の美しさ、人間の無私の行為の神々しさ、動物のいとおしさ、大宇宙の森厳さ、こんなとき仏があらわれているのかもしれません。そしてそれに感動している自分にも仏が投影しているのではないか、私の中のいのちも輝いているのではないか、そのいのちの感じとったものが、いつの日か、画面に菩薩の象として凝集してくるのを待つしかないのだと・・・・。            あだち 幸

            友禅画 京都壬生寺障壁画(2.7x30m)

ほとけシリーズ―Ⅰ

      不動明王シリーズ

手描き友禅画 「不動明王」

―殺すなかれ 産ましむなかれ 天の火をあやつるなかれ―

あの日

国破れずとも山河まで失われることになろうとは・・・東北 フクシマ。

神も仏もあるものか・・・絵を通してほとけを追求してきました私はもはや描くことなどできなくなりました。

しかし現実は 被災された方々のみならず 動物をはじめあらゆる命のあまりの無残。

絶望は怒りに変わり 嘆き 慟哭はやがて不動明王として象(かたち)を結びました。この地獄の業火を不動の背負う浄火でおおいつくし 海も山も蘇りますように。    

そして そこから再びたちあがる文明は 他の命の犠牲をかえりみない人間中心のものではありません。海も川も山も 人も魚も動物もいのちは平等です。そのすべての命との共存をめざす文明でありますように。

はからずも画面は地球創生の様相となりました

祈        あだち 幸  

       ほとけシリーズーⅡ

      ほとけシリーズーⅢ

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